岐阜高校
岐阜高校同窓会

2022.06.07
歴史を築き、未来を創る

岐高生時代、彼らは何かをやり遂げると、皆が期待していた同窓生が、期待にたがわず、やってくれました。
築き上げた偉業、これから創っていく未来を、熱く語っていただきました。

I like to see a man proud of the place in which he lives.
自分の場所に誇りを持つ人間が好きだ

戸田 達史(昭和五四年卒 三年一組)

早いもので岐阜高校を卒業してから四三年が過ぎようとしています。東京大学医学部卒業後、東京大学神経内科に入局し、東大病院および関連施設で神経内科の診療を行いました。神経内科とは、精神神経科や心療内科と間違えられることもあるのですが、脳神経系が侵される病気により認知症状が出たり手足が動かなくなったりする病気を扱います。脳梗塞、認知症、パーキンソン病とか、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、筋ジストロフィーも対象です。難病も多いです。決してまじめな学生ではなかったのですが、教科書に、「筋萎縮性側索硬化症:予後絶対不良である」と書いてあった事が頭に残り、研究して絶対不良をよくなるようにしたいというのが、神経内科に興味を持った理由です。

医局から派遣され勤務した筋ジストロフィー専門病院で福山型筋ジストロフィーの患者さんに出会いました。この病気は生まれて間もない頃から乳児期にかけて、筋肉の力が弱く発達の遅れが見られます。筋肉の病気なのに知的発達の遅れ、ひきつけなど中枢神経系の異常を伴い、福山先生が最初に報告されたので福山型と呼びます。日本人に多く、日本人では九〇人に一人が遺伝子変異の保因者といわれています。お座りまでできるお子さんは多いのですが、歩行可能な子は一〇%以下と数少ないです。

「日本人の名前のついた病気は日本人の手でなんとかしたい」と思い、全国の病院に手紙を書き山中まで採血にいき、福山型の原因が九番染色体に存在する事を明らかにしました。その後、東大助手、東大医科学研究所助教授に異動してからも解析を続け、一九九八年原因遺伝子フクチンを同定しました。二〇〇〇年阪大臨床遺伝教授に着任して自分のラボをもち、本症やパーキンソン病の遺伝子・病態の研究を行い遺伝子診療に携わってきました。一連の仕事は幸運にも二〇〇八年「朝日賞」を受賞する事ができました。そうしているうちに二〇〇九年神戸大学神経内科教授に推薦され、オリジナルである神経内科に戻ることになりました。さらに二〇一一年には、本症はフクチン遺伝子に入り込んだ別の「動く遺伝子」による遺伝子の切り取り異常症であること、この筋ジスがひょっとしたらアンチセンス核酸というある種のDNAの薬で遺伝子に蓋をして治療できるかもしれない、ことを発見しました。筋ジスのような不治の病も、その原因が発見されて、治療も視野に入るという時代になってきたのです。このアンチセンス核酸は医薬品承認を目指し、製薬会社とともに開発し昨年から治験中であります。現役の間にこの薬を上市させたいと思っています。

実は一〇年前の幹事学年の時も執筆しており、その時は「雪埋梅花、不能埋香」というタイトルで、そのさらに一〇年前は「東京と大阪」というタイトルでした。この一〇年のうちで、自分にとって一番思い出に残っていることといえば、なんと言っても学士院賞受賞でしょう。二〇一七年第一〇七回の日本学士院賞を受賞することになり、上野の日本学士院にて天皇・皇后両陛下のご臨席のもと授賞式が行われました。受賞のテーマは「福山型筋ジストロフィーを含めた糖鎖合成異常症の系統的な解明と新しい糖鎖の発見」で、遠藤玉夫先生(都長寿医セ研究所)との共同受賞です。授賞式当日はまず天皇皇后両陛下に、内容を簡単にご説明しご質問を受けました。当初は緊張しておりましたが、予定通りの時間で意外とすらすらと説明出来ました。また授賞式では緊張の面持ちの中、賞状・メダルなどを拝受しました。陛下は「光明があらわれてきたということですね」と、やっぱりおっしゃることが高貴でした。その後一〇人の受賞者は皇居に赴き、宮中茶会に招かれました。賜り茶とはいうものの、実際は豪華なフランス料理が五品出てきました。テーブルは五つ。歓談しながら一品を約一五分かけていただき、終わると皇族方がテーブルを移動される「おもてなし」でした。侍従長ご一行、宮内庁長官ご一行、秋篠宮殿下妃殿下、皇太子殿下、両陛下(当時)の順番で計一時間半歓談させていただき、貴重な経験でした。

もう一つは古巣の東京大学神経内科教授に二〇一七年に異動したことです。これも想定の範囲外の出来事でした。現在、大学と関連病院一〇〇名の医局員とともに診療・教育・研究をおこなっています。また日本神経学会代表理事として九、〇〇〇人以上の神経内科医の学会の舵取りをしています。

いつも年頭の挨拶で自分が好きな言葉を教室員に語っているのですが、その中の一つにリンカーンの言葉として I like to see a man proudof the place in which he lives. 自分の場所に誇りを持つ人間が好きだ、というのがあります。世界的建築家の隈研吾さんを例えにして、バブル崩壊後に経済的にも精神的にも苦しい時期があったといいます。そんなある日、地方での仕事の依頼が舞い込んだ。バブルの頃とは比べものにならないほど小さな仕事だったが、食いつなぐために高知県四万十川上流の檮原町に向かった。町の九割は杉の森林が占める山間の小さな町だが、町の人々が長い間大切に育ててきた杉の一本一本に深い愛情と誇りをもっていることを知り圧倒されたという。これまで大都市の仕事現場で語られるのは工期と工事費のことばかり。ところが檮原の人々が語るのはこの町への誇りと愛情だった。隈さんは自分が変わっていくことを実感したという。それまでは大きな予算のプロジェクトを手がけることがいい建築を作る条件だと思っていたが、それは建築の善し悪しとは全く関係がないことに気づいた。どこに行っても自分が今居る場所が楽しくなるよう頑張りなさい、ということなのである。人生様々なことがあってどこにいるかわからない様な場合もありますが、私も自分の意思で考え三ヶ所の大学を異動してきたが、自分の場所を好きになるよう頑張ってきました。
イタリアの世界遺産アマルフィに関係して TIME TO SAY GOODBYE という歌があり、難病に SAYGOOD BYE と言える時が来る事を祈って、今後も研究・診療に頑張っていきたいと思います。

「フレー、フレー、岐阜高!」

髙﨑 裕樹(昭和五四年卒 三年五組)

昭和五三年春、岐阜高校野球部が「春のセンバツ」に出場。私はその時、花の応援団長として「甲子園出場?」をすることができました。一回戦を勝ち進み、二回戦で強豪桐生と対戦することになり、周りが負け予想を口にすることに憤り、「負けたら俺は頭を剃る!」と断言して臨みました。試合結果を受け、春の始業式で校歌斉唱の指揮をとるため全校生徒の前に現れた私の丸坊主頭に、驚きと笑い声が上がりました。しかし、それは同時に野球部のメンバーをはじめ皆が、私を応援団長として心から信認してくれた場面であったと思います。

春夏連続出場を狙うとき、甲子園という場において、伝統あるバンカラスタイルで応援するのは無理があると感じた私は、その様式を改革したいと考え、応援団幹部を務めていた辻竜也君と二人で春の早慶戦を見学しに行きました。彼の勧めで早稲田側を選び、長い入場待ちの最前列に行き、「岐阜から応援の勉強に来たので、目の前で見学させて欲しい」と頼み込みました。盛り上がる野球の試合などそっちのけで、早稲田大学応援部の応援指導を目に焼き付けました。感動し舞い上がった私たちは、帰りの新幹線のデッキで二時間、みっちり復習をしたことを思い出します。それ以来、岐阜高校に早稲田の応援スタイルを導入。残念ながら夏の県大会では県岐商に敗れ、甲子園で再び応援する夢は叶いませんでしたが、早稲田大学を志望する夢に変わりました。
志望大学の急な変更を理解し推してくれた担任の柴田文彦先生、家計が苦しかったのに憧れの東京生活をさせてくれた両親に感謝しています。

その東京生活を通して逆に郷土愛が、そして何より一年後輩の同窓生、小川啓子との遠距離恋愛(のちに結婚)が燃え上がり、Uターンして名古屋鉄道に就職することにしました。

お調子者なだけで、気が小さく苦難に弱い私を支え、社会人として成長させてくれたのは妻の啓子であったと思います。しかし、一二年前の二〇〇九年一二月、四八歳で他界しました。死を以て最後の教えを私に示したと思い、それ以来、強い信念を持って仕事に取組んでいます。私は、当社を地域№1のまちづくり会社にしようと不動産事業を強化し、名鉄名古屋駅再開発計画を打ち上げました。またコロナ禍の真っ只中の昨年六月、社長に就任。「地域を創る、社会を支える」企業として再生、成長を図れるよう奮闘しているところです。

高校時代、応援団活動が面白くなり、中途半端な形でやめてしまった剣道でしたが、亡き妻の勧めで再開し、稽古を重ねています。剣道部の村瀬隆平先生を困らせた劣等生でしたが、今は少し優等生の仲間入りができたような気がしています。コロナ禍が明けたら、岐阜高校剣道部で行われている稽古会に参加し、思い切り声を張り上げたいと思っています。

「フレー、フレー、岐阜高!」

「道を拓き、山を動かす」

新岐阜百貨店があった頃が懐かしい名鉄岐阜駅。いま岐阜の魅力あるまちづくりに向けた玄関口となるよう、駅周辺開発計画を検討中である。

岐阜のまちの魅力向上を図るためには、中心市街地において「歩いて楽しいまち」を創ることが必要である。

中心市街地には忠節橋通り、金華橋通り、長良橋通りの三本があり、南北を貫く。金華橋通りは、道路幅が広く、車中心であり、店舗が乏しいので、ここを歩いて楽しい通りにするのは難しい。景観を整備し、都市の風格を象徴する通りとして位置付けることが望ましい。一方、長良橋(神田町)通りは、道路幅が比較的狭く、雨を凌げるアーケードがあり、店舗がつながっている。三本の通り中で、歩行者を主体として賑わいの中心軸にできるのは長良橋通りである。

名鉄岐阜駅はこの通りに面しており、駅周辺開発を計画するにあたり、「歩いて楽しいまち」の起点となることを目指している。長良橋通りに対する駅ビル低層部の空間の開き方を工夫し、駅とまちを繋げたいと思う。そして、地元の合意形成が必要だが、長良橋通りの車線を減らし、歩行者空間を拡幅、一部区間をトランジットモール(車を制限し、歩行者と公共交通機関のみが通行できる街路)化できれば、まちを歩く楽しさを格段に高められるはずである。地元の方々と一緒にまちづくりについて議論し、気運を高めたい。

通りの整備に関し、付け加えて述べておきたいのは「御鮨街道」である。長良川畔の川原町から始まるこの通りは、江戸時代、幕府に鮎鮨を献上した道である。南部にある中山道加納宿とも繋がっており、今でも岐阜の歴史や文化を感じさせる。近辺にある寺社、古民家などを活用し魅力向上を図り、長良橋通りと合わせて回遊性を高めれば、岐阜の「歩いて楽しいまち」を創造できる。

私はかねてから、次の四つを揃えて、歩いて楽しいまちづくりに取組むことが必要だと思っている。それは、①地域独自の歴史や風土を感じさせること、②自然・環境志向であること、③文化・芸術活動を盛んにすること、④美味しい食べ物を提供することである。

これら四つが揃っている岐阜は、名古屋都市圏の中で、最も自然と歴史、文化に優れた都市ではないだろうか。風情とか情緒というより、(変な意味ではない)色艶を出せるまちである。多くの人が、そんな魅力を歩いて楽しんでもらえるよう、愛する郷土のまちづくりに貢献していきたい。

私にはもう一つ、岐阜において描いている大きな夢がある。それは、新穂高ロープウェイのこと。岐阜高校の同窓生としては林間学舎のときに訪れて思い出深いはず。このロープウェイは当初、上高地までつながる壮大な計画であった。自然保護などの観点から実現していないが、将来的に新穂高と上高地が手軽に周遊できるようになれば、国際級の山岳リゾートが形成されるだろう。いま地元の関係者の方々と一緒に活動を始めている。

名鉄岐阜駅周辺開発も、新穂高・上高地の一体周遊化もかなり長い年月を要するプロジェクトになる。しかし、地域にとって本当に大切なことは何かを考えて高い理念を掲げ、熱い志を持って粘り強く、新しい「道」を拓き、大きな「山」を動かしていきたい

空飛ぶ望遠鏡

中川 貴雄(昭和五四年卒 三年一組)

丁度、岐阜高校に入学したころのことだったかと思います。「望遠鏡をつくる人びと」(岩波科学の本)という本を読みました。著者は東京天文台(現在の国立天文台)の森本雅樹という天文学者でした。「天文学者とは、夜な夜な、星空を眺めている人」という漠然としたイメージを持っていた当時の私にとって、この本は、とても驚きでした。ここに登場する天文学者たちは、まず自分の目で星空を見ません。目に見えない「電波」を使って、星空を見ようとしている人たちでした。さらに、その見るための道具である「望遠鏡」、しかも今までにない「新しい望遠鏡」をつくることに、情熱を傾けている人たちでした。天文学者が「目で星を見ない」「自分で望遠鏡をつくってしまう」という二重の意味で、この本の内容は私にとって驚きでした。

その後、大学、大学院と進み、私は天文学研究の道に進みました。大学院入学から数えても、もう四〇年近くにもなります。そして、この本の影響もあったのか、私も「望遠鏡をつくる人びと」の仲間入りをしました。まず、「望遠鏡をつくる人びと」に登場する方たちのように、目では見えない光で宇宙を探ることを志しました。ただし、「望遠鏡をつくる人びと」の中で登場する「電波」での観測ではなく、もっと新しく育ってきた「赤外線」での天体観測を目指しました。そして、その研究実現のために、いろいろな「望遠鏡」を作ってきました。ただし、私が携わってきた望遠鏡は、少し変わった望遠鏡でした。一般に思い描く望遠鏡は、天文台等に設置される地上の望遠鏡だと思います。しかし、私が作ってきた望遠鏡は、そのような望遠鏡とは全く異なり、「空飛ぶ望遠鏡」とでも呼ぶべきものでした。

「空飛ぶ望遠鏡」とはいったい何でしょうか。

宇宙にあまたある天体たちは、多彩な「メッセージ」を発しています。それには、もちろん目に見える可視光線が含まれますが、それに加えて、目には見えない光、すなわち電波、赤外線、紫外線、X線、ガンマ線が含まれます。天体の本当の姿を知ろうとすれば、可視光線のメッセージだけでは情報不足であり、その他の多様なメッセージに耳を傾ける必要があります。

しかしながら、これらのメッセージのほとんどは、地上には到達しません。地球の大気に吸収されてしまうからです。私が星を見るのに使いたいと考えた「赤外線」も、地上にはほとんど到達しません。そこで、地球の大気の影響を逃れて、天体の多彩なメッセージを受けとるためには、地球の大気の影響を避けるところまで望遠鏡を持っていかなければなりません。そこで、私は「空飛ぶ望遠鏡」を作ってきたのです。

最初に作った「空飛ぶ望遠鏡」は、大きな気球(大気球と呼んでいます)に搭載する望遠鏡でした。この気球は、全長が一〇〇mを超えるような巨大なものであり、これに望遠鏡を搭載して、高度三〇-四〇㎞まで上昇させました。手作り感あふれる望遠鏡でした。この望遠鏡を携えて、アメリカ、オーストラリア、インドなど、大きな気球を打ち上げるのに適したところまで出かけて観測を行い、私たちの銀河系の中で、どのように星が作られているかを調べました。

図1  2006年に打ち上げた赤外線天文衛星「あかり」

その次に作った「空飛ぶ望遠鏡」は、人工衛星に搭載する望遠鏡でした。一番代表的なものが、「あかり」という赤外線天文観測衛星(図1)です。これには口径七〇㎝の反射望遠鏡を搭載しました。ただし、少し変わった望遠鏡で、目的とする赤外線を高感度で観測するための特別の工夫をしていました。それは、望遠鏡全体を摂氏-二六七℃(絶対温度で六K)という極低温まで冷却したことです。赤外線による天体観測の大敵は、天体以外からやってくる余分な赤外線です。しかも、この余分な赤外線は、温度あるものからは必ず放射されるため、頭痛の種です。実は、望遠鏡自身も、強烈な「余分な赤外線」の源となりえます。この「余分な赤外線」を抑える最も有効な手段は、赤外線が放射されないような極低温まで、望遠鏡を冷やしてしまうことなのです。そこで、私たちは、望遠鏡全体をそっくり冷やしてしまったのです。このことにより、望遠鏡から放射される余分な赤外線が抑えられ、今までにない高感度の観測が期待されました。

図2  鹿児島県内之浦からの赤外線天文衛星「あかり」の打ち上げ

「あかり」は二〇〇六年二月に打ち上げられました(図2)。順調に打ち上がったように見えたのですが、軌道に到達した直後に、衛星の姿勢を決める重要なセンサーの一つである「太陽センサー」が正常に動作しないという、全く予期していなかった事故に見舞われました。このままでは、衛星の姿勢が決まらず、観測が全くできません。そこで、急遽、壊れた「太陽センサー」を用いないで、他のセンサーだけで姿勢を決定する新しいソフトウェアを開発しました。その結果、何とか観測にこぎつけることができました。「あかり」を用いて、私たちは、銀河系の外の、他の銀河の中で、どのように星が生まれているかを調べました(図3)。

図3 「 あかり」が観測した全天の赤外線画像。中央を水平に横切っている明るい帯状の領域が我々の銀河系で、図の真ん中が銀河系の中心方向に相当する。赤外線が明るい領域では、活発な星形成が起きていると考えられる。右上から左下に延びている明るい帯は、我々の太陽系の中の塵が放射している赤外線。

続いて、さらに遠くの宇宙を調べることができないかと、SPICA(Space Infrared Telescope forCosmology & Astrophysics、図4)という計画に取り組みました。これは口径二.五mという大きな望遠鏡を宇宙に打上げようという野心的なものです。これだけの大型計画になると、日本だけでは実現はできませんので、世界中の天文学者と協力して、この計画の実現を目指してきました。しかし、SPICA計画は、二〇二〇年に、財政的な理由でキャンセルされてしまいました。残念至極。

図4  次世代赤外線天文衛星SPICAの想像図。残念ながら実現しませんでした。

キャンセルは大変に残念なことではありますが、この計画の推進を通して、私は世界中の優秀な方たちと出会い、多くの人に助けていただきました。望遠鏡を搭載した人工衛星を実現するには、実に多くの方が関わるのです。一言申し上げたいのは、その中には、岐阜高校を卒業された優秀な先輩や後輩の方も含まれていたことでした。多くの優秀な方との出会いは私にとって、とても大きな財産です。この大きな財産を活かして、また全く新しい「空飛ぶ望遠鏡」を作れないかと、いろいろと考えているところです。

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