岐阜高校
岐阜高校同窓会

2022.06.07
同窓生たちの寄稿

今もすてきな同窓生たち
みんなちがってみんないい

思い出の甲子園出場

昭和54年卒 3年8組
大塚 淳人

昨年夏から、勤務地が岐阜市になった。市内を歩くのは高校以来で大変懐かしい。財界や行政などの挨拶先には、岐阜高校出身者が多く、着任して間もない者にとり、同窓の繋がりの強さは、大変有難く心強い。さて、岐阜高校での思い出は、やはり第五〇回選抜高校野球出場。本原稿作成にあたり、久しぶりに写真や記事を見返すと、当時の懐かしい思い出が蘇えってきた。振り返れば、甲子園出場は本当に運が良かったと思う。しかし、投打、走攻守のバランスの取れた良いチームで、結構強かったなあと思う。佐藤・平井君のバッテリーは安定感抜群で、後藤君と私の二遊間、杉山、鈴木、加藤、高場君の外野陣もよく守った。また、いざという場面でみんな勝負強かったし、生田監督の采配は強気で功を奏した。二年の夏に県ベスト四になったことで、皆の目標が一気に甲子園出場となった。秋の県大会は、優勝候補の中京商業(現中京高校)に九回二死から大逆転勝ちし、勢いに乗り優勝。東海大会も準決勝まで勝ち上がり、甲子園出場が決まった。憧れの甲子園では、開会式の入場行進曲が松崎しげるの「愛のメモリー」で、少し歩きにくかったことを思い出す。試合は、アルプス席の大応援団の後押しにより、一回戦は逆転勝利。応援団長は髙㟢君だった。私は、卒業後、長嶋茂雄さんに憧れ立教大学野球部へ入った。四年時は主将を務め、五〇歳からは四年間、監督を拝命した。また東邦ガス(株)野球部でも、三〇歳まで選手、その後監督を経験するなど、長年に渡りアマチュア野球に携わることができた。その原点は、岐阜高校で仲間に恵まれ、甲子園に出場できたことだと思っている。先日、野球部の北川監督をグランドに訪ねたところ、部員に最後の甲子園組の主将として紹介された。あれから四四年が経ったのかと感慨深かった。私学の強豪校が増える中でも、近い将来母校の甲子園出場を願っている。

「岐高」とのつながり
~今迄のこととこれからのこと

昭和54年卒 3年3組
永田 浩一

同窓会会報部会長 北村文近さんから寄稿を依頼された。県・市立図書館の自習室仲間だった誼(懐かしいね)で気楽にお引き受けした。(それなりに)歳をとると遠い昔を思い出すことも多くなった。思い出話、近況、そしてこれからについて、自分の周りの「岐高」にフォーカスして思いついたことを書き連ねてみる。

私自身は、卒業後も岐阜から離れることなく(大学・大学院・就職)、その後も東京一年、ロンドン三年、名古屋六年を除いては地元で五〇年以上暮らしていることになる。一九九八年に岐阜大学を離れ、現在は愛知県医療療育総合センター発達障害研究所(春日井市のはずれ:通勤片道二時間弱…)で、発達障害(特に自閉症・知的障害・難知性小児てんかん)の発症メカニズムの研究を行っている(写真1)。発達障害は人口の五〜一〇%に発症するとされ、最近の重要な社会問題・医療トピックスのひとつである。遺伝子の変化が主要な原因とされているが、一〇〇〇種類以上の原因遺伝子が報告されていることからも予想されるように、症状が非常に多様であり、統一的な治療方法がないのが現状である。私どもは、発達障害研究に特化した全国唯一の研究機関として、効率的かつ有効な治療法・診断法の開発を目指して研究を展開している。自分自身が直接実験をすることは無くなったが、若い共同研究者たちが神経細胞やネズミをモデルとして病気の研究を活発に行なっている(写真2)。余談ながら、当研究所障害モデル研究部・浅井真人部長も岐高卒(平成元年)で、父上は数学の浅井克彦先生(受験などという些末な俗事を超越した高踏数学のひと。私は殆ど煙に巻かれていた。現在八〇歳で、大変お元気とのこと)。

さて、流石に県下随一の進学校だけあって、仕事をしていると国内外思わぬところで「岐高」にあう。ロンドン留学中もクラスメイトが駐在員として赴任してきて、その偶然に驚いた。英国岐阜県人会も「ミニ岐高」だったし、昨年主催した学会(第五三回日本臨床分子形態学会)でお世話になった九州の教授も六年先輩だった。特別講演も後輩が二つ返事で引き受けてくれた。同級生・先輩・後輩諸氏からのご協力に、同窓の有り難さを痛感した。愛知県の難病対策諮問委員会でも、何気ない世間話で他の委員が先輩だと判ると急にガードが下がる。一方、岐阜に暮らしているのだから当然色んなところで「岐高」と縁ができる。岐阜大学の上司、同級生、先輩、後輩には地元で活躍する友人知人も多い。大学の仲間から愛知県職員仲間からただの呑み友達まで、「岐高」には今になっても色々教えられている感じ。茶道の稽古に通ってみれば、師匠や集うひとたちで「岐高」の昔話にひととき心なごむ。「岐高」に公私共々助けられながら、これまで何とか面白おかしくやってこられた。定年まであと四年、優秀な仲間に恵まれて最後まで仕事を楽しめるのは幸運としか云いようがない。が、研究には終わりがない(というか「仕事」と違って興味が尽きない)。老害にならぬように第二の人生に向けた準備をそろそろ始めねば。広げてきた仕事を上手く「手仕舞い」して、後任にスッパリと引き継ぎをすることが次の目標になる。と、ここまでは決めたのだが、問題はそのあと何をするかが決まっていないことだ。

「岐高」には一流の(というかユニークな)先生が多かった気がする。長良川の堤防から岐高の洒落た校舎を見て、「特別な」高校であることを感じる。自身の三人の子供たちはとうとう縁がなかったが、今後も優秀な先生と生徒が切磋琢磨できる環境が連綿と続くことを祈っている。追記:コロナ騒動前には国語の高橋章先生を仲間とお訪ねして三十数年ぶりにお目にかかった。ドラマのシナリオも書かれた粋人だ。大変な時節であるが、恩師の先生はじめ友人、知人のご健康を祈りたい。

(写真左)執筆者の研究チーム。遺伝子からタンパク質、マウスまで幅広い研究手法を用いている。
(写真右)愛知県医療療育総合センター

岐阜高校と岐阜盲学校と夏目漱石と私

昭和54年卒 3年4組
櫛部 啓子

平成二六年一一月二九日、当時、岐阜盲学校に勤めていた私は、ひょんなことから「雑司が谷霊園」に教頭先生方とお墓参りに行くことになりました。墓の主は、森巻耳(もりけんじ)先生。森家の御子孫の方々と池袋のホテルで昼食をご一緒し、その折、夏目漱石から森先生のご子息に送られたお手紙を岐阜盲学校にと託されて、いただいて帰ってきました。

森巻耳先生は、石川県のご出身で、明治二〇年に岐阜県尋常中学校の博物学と英語の教員として赴任されました。明治二一年、眼病のため退職。濃尾大震災で被災した盲人の悲惨な状況をなんとか救いたいと明治二七年に岐阜盲学校の前身である、岐阜聖公会訓盲院を創立されました。岐高百年史によれば「明治四二年五月二七日、岐中の南、道を隔てた梅ヶ枝町に岐阜訓盲院が新築された。森巻耳とチャペルの苦闘一五年の成果である。この新築は海外よりの寄付によるものだ。」という記述があります。海外の寄付は大きかったのですが、国内の寄付も相当ありました。そのことに夏目漱石が大きく関わっているのですが。その前に。

森先生が岐阜中学で教鞭をとっておられたころ、学生であった、川瀬元九郎氏のことに触れたいと思います。会員名簿の明治二四年四月卒の欄に名前があります。ちなみに同じ年に有名な数学者の高木貞治の名前もあります。高木貞治博士も森先生の教え子のお一人だったのでしょうか。この川瀬氏はアメリカに留学し、日本にスウェーデン式体操を持ち込んだことで有名な方なんだそうですが、もう一つ、眼病を患う恩師のためにケロッグ博士のマッサージ学の本を持ち帰ります。(ケロッグは、かの有名なコーンフレークのケロッグ)全部英語で書かれたこの専門書をどうやって日本語に訳し、点訳したか、本当に大変な作業であったろうと拝察します。チャペル先生が読んで森先生がそれを日本語にしたのでしょうか。岐阜盲学校にはこの点字の本が残っています。その頃も、盲人が生計を立てるために、あんまや針の技術を身につけていたのですが、それは徒弟制度みたいな感じでした。それを森先生は、衛生学やマッサージ学のようにカリキュラムを整え、きちんと学問に裏付けされた学校にしていかれたわけです。

さて、森先生にはお子さんがお一人ありました。森巻吉さんという方です。この方は岐阜中学中退で卒業生の名簿には残念ながらお名前がありません。東京帝国大学で英文学を夏目漱石から習いました。卒業後もずっと交流があったそうです。巻吉氏は、その後、第一高等学校校長になっておられます。岐阜訓盲院校舎新築のため、夏目漱石が発起人の一人となり、慈善演芸会を計画し、川瀬元九郎さんとともに奔走します。最初に述べた私たちが東京でもらってきた手紙は夏目漱石が森巻吉さんにあてたこのときのものだったのです。そこには、慈善演芸会の切符のことが書かれています。先方の人に売り損なったとか、自分が買った分は現ナマで同封したとか、それとは別にいくらかの寄付もしたいなど・・・。文体こそ明治時代のものですが、内容は気さくなものでお二人の親しさが感じられます。

森先生が盲人だから仕方がないとか、目が見えなくなったら何もできないとかと絶望せず、これも神様の試練と視覚障害者の教育や福祉の道を開かれました。ここに我がことを結びつけるのもおこがましいのですが、あえて・・・・。

一〇年前の同窓会のころ、盲学校の高等部で進路支援をしていた私は、視覚に障害があり、しかも知的障害もある生徒さんたちの進路先でいろいろ悩む日々でした。目が見えないからしかたないとか、何もできないと諦めてしまうのでなく、学校生活の中でつけてきた力を生かして仕事をしていけないか、「盲重複障がい児・者のこれからを考える会 ポコアポコ」という団体の立ち上げに参加し、生活介護事業所アンダンテのサービス管理責任者になりました。みんな元気にクッキーを焼いたり、手織りをしたりしています。そして私たちの事業所も手狭になってきて新しく建物を建てようとしています。「慈善演芸会」はできないけれど、いろいろな方々のご支援のもと、これからも盲重複障がいの人たちが誰に遠慮することなくのびのびと自分らしく生きていけるよう、できることをしていきたいと思っています。

一野球ファンの目線で振り返る、1978年春のセンバツ、岐阜高校の戦い

昭和54年卒 3年7組
山田 敦

一九九一年に企業の駐在員として移り住んだ台湾で独立、起業。今も台北で自動車産業関連の小さな会社を営んでいます。気づけば、人生の半分以上をここ台湾で過ごしたことになります。岐高時代の最高の思い出、七八年春のセンバツとその前後の岐高野球部の戦いを振り返ってみたいと思います。

私たち七九年と一つ下の八〇年卒業組は幸せだ。四四年前、岐阜高校の直近の甲子園での戦いをアルプススタンドでこの目で見られたのだから。私たちが岐高へ入学した一九七六年春の段階で、岐高の甲子園出場を予想した者が一人でもいただろうか。その「ありえない」が「ひょっとしてあるかも」に変わったのは翌七七年、二年生の夏。ノーマークのダークホースとして県大会をベスト四へと勝ち上がった岐高は準決勝で岐阜南に敗れるも、夢の甲子園が一気に現実味を帯びて来る。

七七年秋、新チームの主力二年生は自分たちの同学年。頭脳派エース佐藤、キャッチャー四番平井、ともに俊足好守好打、セカンド後藤、ショート主将大塚の一、二番コンビ、杉山、鈴木、加藤の外野陣は打力、守備力とも県内No.1。しぶといバッティング、固い外野守備の高場、片桐。不運なケガで正キャッチャーからマネージャーに転じた杉山はこのチームの精神的支柱だ。先発メンバーではファースト五番広瀬だけが一年生。このころには岐高強し!のイメージも浸透し、秋の県大会を順調に勝ち上がり優勝。準優勝の大垣商とともに東海大会へ。初戦の四日市工業に三-二で辛勝すると、準決勝の相手は、圧倒的優勝候補の中京(現中京大中京)。中盤の五回、四番平井のホームランなどで一気に中京を逆転。最終盤で再逆転を許し四-六で惜敗するもセンバツに王手をかける堂々のベスト四。準優勝の浜松商、同じくベスト四の刈谷とともにセンバツ切符をつかんだ。(優勝の中京は部員の不祥事で選考を辞退、涙を飲む。)

そして迎えた甲子園一回戦、相手はやや格上と見られていた吉備(和歌山)。この試合、岐高は投打がかみ合い九-四で快勝。岐高にとっては一六年ぶりの甲子園での勝利。文武両道、公立進学校の甲子園出場は今も昔も必ず話題になる。この年、前橋高校の松本投手が一回戦、比叡山戦でセンバツ初の完全試合を達成。岐高とともに見事、一回戦突破の快挙を演じてみせた。

二回戦の相手は、高校屈指の本格左腕木暮、No.1スラッガー阿久沢を擁する優勝候補の一角、桐生(群馬)。相手にとって不足なし。早朝の第一試合、試合は岐高応援席のため息とともに桐生ペースで淡々と進み、〇-七の惜敗(?)。岐高野球部のセンバツは終わった。

大会は同じ東海代表の浜松商が優勝。準優勝は福井商。共に岐高とそう身の丈が違わない公立校。こうなると岐高の甲子園優勝というのもまんざら夢とも言い切れない、運と勢いさえ味方につければ意外と手の届きそうな現実のように思えてきたから不思議だ。

尚、桐生のエース木暮は翌年、早稲田へ進学。岐高応援団長の髙㟢君や自分は四年間、神宮球場で自軍のエースとして彼を応援することになる。共に立教へ進み主力選手として活躍した主将の大塚君、一学年下の広瀬君は神宮で何度も木暮と対戦したのではないかと想像する。お二人の大学、社会人野球の指導者、高校野球解説者としての活躍は今さら説明不要だろう。

甲子園での一勝により高校球界、メディアでの扱いもガラリと変わった。夏の予選は県内の有力校もすべて打倒岐高を目指して集中力を高めてくるだろう。下馬評は岐高と県岐商が最有力。ここに大垣商、中京商、市岐商、岐阜南などが紙一重で迫るというもの。我々三年生も受験勉強そっちのけで応援に駆け付けた。岐高は順当にベスト八へ勝ち上がり、ついに準々決勝で「岐阜の早慶戦」、岐高vs岐商が実現する。アンダースロー野村、強肩キャッチャー藤田(筆者と島中学で同級生)のバッテリーを軸に伝統の岐商野球を展開する総合力の県岐商。勝った方が甲子園と、がっぷり四つで戦った結果は一-三の惜敗。同級生たちの二年にわたる甲子園をめぐる戦いはここに幕を閉じた。

その夏、甲子園での県岐商は愛甲投手の横浜、春に岐高が手も足も出なかった桐生など全国屈指の強豪校、優勝候補を次々と撃破しベスト八に駒を進める。準々決勝で優勝したPLに〇-一で敗れたものの、岐阜の野球ファンにとっては忘れられない夏となった。

私は岐阜の野球ファンとして一生のうちに一度でいいから岐阜県勢の甲子園優勝をこの目で見たい。当面、その夢は鍛治舎監督の県岐商、阪口監督の大垣日大両校に託そう。だが、岐高野球部にももう一度、あの七八年春の奇跡を再現していただきたい。野球部のみなさんの一生懸命なプレーを我々卒業生は常に応援しています。

筑波研究学園都市での37年

昭和54年卒 3年4組
小木曽久人

私が、筑波研究学園都市で暮らすようになって、三五年以上が過ぎた。東京一極集中の弊害をなくすために、首都機能移転を目的に作られた街だ。そのため、各省庁傘下の国立研究所がこの地に移転してきた。私が赴任した一九八五年はこのような移転作業は街の整備がひと段落し、その象徴的なイベントとして、科学博覧会が開催されていた最中であった。この時は、まだこの人工都市は、人の住む街としては未完成だったかもしれない。東京へのアクセスも悪く、陸の孤島とも言われ遊ぶところが少なく、大きな駐車場をもつ飲み屋という不思議な光景が揶揄され、自殺率が高いという報道や、AERAに“科学の街は嫁不足”なる見出しの記事が出され、私の職場の先輩が一人彼の部屋にいる姿の写真として掲載されるなど、歪な街として紹介されることがしばしばであった。このような状況が一変したのは、二〇〇五年のつくばエクスプレスの開通であろう。これにより沿線の住宅開発がすすみ、電車で通い、帰りに駅の近くの居酒屋で一杯飲んで帰ることができる、徐々に普通の街になっていった。前述したAERAも手のひらを返したように、つくばを移住しやすい街として紹介するようになった。現在は、私も“住みやすいつくば”を享受して生活できるようになったのである。しかし、かつての閉鎖的な街の中で、研究者間の田舎的に濃密な人間関係での生活は、研究者としての私を大きく育ててくれたと懐かしく感じる時も多い。

国立研究所が多いつくばでは、研究内容も国の科学技術政策に左右されることも多い。街の雰囲気が変わっていくのと同様に、この三〇数年で研究環境も変わってきている。入った工業技術院機械技術研究所は、通産省に所属し、入所当時は、国が大きな研究予算を投じて、次世代と目される産業目標に対して国が大きな企業群と国の機関が合同で行ういわゆる大型プロジェクトというものが盛んであった。しかし、海外から日本の基礎研究ただのりなどの批判も強く、国立研究所が民間と同じような目標の研究をすることはタブー視されるようになり、基礎研究が重視されるようになった。私も新設された産業技術融合領域研究所に籍を移し、産学一体プロジェクトながら、原子・分子操作技術という、のちにナノテクロジーと呼ばれるような分野の研究に携わるようになった。研究者として充実した時期に、このように自由な基礎研究に携われたことは非常に幸運だったと思う。しかしながら、バブルが崩壊したのち日本経済の低迷が長引くと、今度は実用化から遠い研究はいけない、研究所が多くあるのは再編する必要があるということで、二〇〇一年の省庁再編と同時に、工業技術院傘下の研究所を統合して、現在の産業技術総合研究所が発足し、そのままそこに籍を移すことになる。私自身もそこに籍を移した。現在は積層造形装置の研究などをしている。残念ながら、この二〇年間、論文シェアーなどからみる、日本の科学技術研究の国際的地位は低下しつづけているのが現状である。地位低下の当事者の一人として責任を感じている。とはいえ、ここは依然科学技術が集積されている地であることには変わりはない、二〇一七年ロイターが選んだ世界の国立研究所ランキングに、五位の産業技術総合研究所、一二位の物質材料研究機構、また一三位の理化学研究所のブランチが、ここに集まっている。

科学もある意味日常になり、国策にも振り回されていると、自分では気がついていなかったが、若い頃の科学に対する情熱が薄れかけていたのかもしれなかった。そんなときに、嬉しいニュースが飛び込んできた。岐阜高校が、二〇一七年の「全国科学の甲子園全国大会」で名だたる進学校を抑えて優勝したのだ。この大会の決勝戦はつくば国際会議場で開催されるので、結果はローカルニュースでも取り上げられる。優秀な後輩たちのおかげで、私の学歴にも箔がついた形になった。それと同時に、純粋に科学者に憧れていた高校時代を想起させてくれた。私も研究者の経歴としては一線を退く年齢になったが、後輩たちの頑張りをうけ、高校時代の気持ちだけはずっと残していこうという気持ちにさせたくれている。

つくば市中央公園

岐阜高校は私の原点

平成元年卒 3年6組
広瀬 修

岐阜高校を卒業されて社会で活躍されている皆様も、順風満帆な時ばかりではなく、多くの苦労・困難を乗り越えて、そして、多くの方々に支えられて、今現在があるのではないでしょうか?

三五歳で岐阜市議会議員、四五歳で岐阜県議会議員に当選させていただいた私ですが、多くの方々の支えがあったからこそ、五二歳を迎える今に至るまで議員を続けることができたと、感謝の気持ちは尽きません。

議員として人生を歩んでいる私の中に「声に出せない人たちの気持ちにも耳を傾ける」という思いが存在し続けています。その思いの原点を遡ってみると、岐阜高校での挫折や経験の数々が思い出されます。

その中の一つを紹介させていただきます。硬式野球部で努力を重ねてもレギュラーを獲得することができなかった「最後の大会での負け試合」です。試合がまだ終わっていないにもかかわらず、八回あたりで涙が溢れて止まりませんでした。それは、負けることが悔しいという涙ではなく、力を合わせて三年間頑張ってきた仲間と勝ちたかったという思いが一つ。そしてもう一つ、中学生の時にはレギュラーとしてグランドに立っていた自分が、高校生の今はレギュラーを獲れず控え選手としてベンチにいる。光と影、その両方を経験したことによる自分に対する涙でした。

それぞれが努力を重ねてレギュラーとしてグランドに立っていることに間違いはありません。しかし、そこには周りの人たちの支えがあり、周りの人たちの思いを背負ってグランドに立っているのだということを、ベンチにいた経験から知ることができました。

三五歳の時、地域に貢献していたわけでもない世間知らずの私に思いを託し、議員へと押し上げてくださった皆様への感謝の気持ちが尽きることはありません。「声に出せない人たちの気持ちにも耳を傾ける」と同時に「支えてくださっている皆様の思いを背負って議員としてグランド(フィールド)に立たせていただいている」その責任や思いを貫くことが、皆様へのご恩返しになると信じて歩み続けています。

岐阜高校で落ちこぼれだった私が、周りの人たちの支えがあるおかげで、今は岐阜県議会議員をさせていただいています。だから、感謝の気持ちを忘れず、これからも今まで以上に覚悟を持って頑張っていきます。そして、高校生活での挫折や経験があったから感じられた、「声に出せない人たちの気持ちにも耳を傾ける」を貫き続けたいと思っています。
だからこそ「岐阜高校は私の原点」なのです。

感謝!!

それはかけがえのない時間だったのだと。

平成元年卒 3年8組
神谷 慎一

高校時代は、なんともいえない「苦い」思い出として記憶されています。青春を謳歌するような輝く時間であったら良かったのですが、「砂を噛むような苦しい時間だった」というのが率直な思いなのです。

理由を探せばいろいろ思い当たるのですけれど、とどのつまりは、勉強についていけなかった、ということです。テストの点数はいつも悪かったし、成績も酷かった、ということです。少なくとも、私にとって、岐阜高校は、勉強ができる・できないということで自分の全てが評価されているような、そういう思いを抱く場所でした。それに、部活動も全然うまく行きませんでした。サッカーを三年間続けたのですが、レギュラーどころか、ベンチにも入れませんでした。三年間、公式戦に出場することは一度もできず、どこをとってもチームに何の貢献もしておらず、自分で言うのも残念ですが「お荷物部員」でした。勉強も、部活も、何をやっても思うようにいかない。そういう三年間でした。

それは、大きな挫折だったのだと思います。岐阜高校に入学してくる生徒は、誰もが中学校では成績上位です。中学までは、これといった努力をしなくても、勉強で苦労することがほとんどなかった生徒も多いと思います。私も、岐阜高校に入るまでは、勉強で悩んだことはありませんでした。勉強ができることは、当時の自分にとっては自信の源でした。サッカーも、それなりに努力が報われていました。それが、岐阜高校では全く通用せず、何をやっても思うようにはいきませんでした。そして「砂を噛むような」息苦しさが残ったのでした。

大学で岐阜を遠く離れて北海道に渡ったことは、そういう屈折した思いを和らげてくれたように思います。北海道の雄大な自然は、それ自体が心をのびのびとさせてくれました。それ以上に、「過去の惨めな自分を知っている人がいない」ということが重要だったかもしれません。居心地が良すぎて?一〇年も北海道に住んでしまいました。

一〇年ぶりに岐阜に戻ると、時々、岐阜高校の卒業生と再会したり巡り会ったりする機会が出てきました。仕事を始めると、その機会は、さらに増えました。高校時代はそれほど親しかったわけではなかったり、言葉を交わしたことすらなかったり、そもそも一緒に入学・卒業したことすら認識していなかったり。それでも、「百折不撓」「親単」「山貞」、それだけで、時間が巻き戻りました。同じ「岐阜高校」で三年間を過ごした、というだけで距離が近づく感じがしました。そして、だんだん、「しんどかったけれど、悪いことばかりでもなかったな。」と思えるようになりました。やがて、あの「砂を噛むような」思い出が、とても大切な、かけがえのない時間だったのだと、心に染みるようになりました。今は、岐阜高校の卒業生の皆さんと過ごす時間が、本当に楽しいです。

そこで、少し偉そうですが、もしかしたら、私と同じような息苦しさを感じているかもしれない後輩達、特に、現役の岐高生の皆さんにエールを送ります。その時間が、いつか必ず、人生の大切な宝物になるから。百折不撓で、とにかく歩ききろう。そして、いつか、どこかで、岐阜高校の思い出話をしましょう。その日を楽しみに待ってます。

食で繋がる

平成元年卒 3年3組
馬場 美穂(旧姓南谷)

「焼き麸」メーカーに嫁ぎ四人目を出産した年に料理教室を始めました。日本の伝統食材「麸」の魅力は知れば知るほど無限大であり、多くの方に周知いただくべく各ライフステージを対象にメニューを提案していこうと考えました。例えば、調理科学の要素を取り入れた教室は子供達が実験感覚で食に興味をもってくれました。また多忙ママの要望から考案した「フライパンひとつでおかず四品」教室は大人気。

思い起こせば高校時代からすでに食に対して欲も関心もあったのかな。当時は空腹故に早弁をすること、お昼時には焼きそばパン目当てに購買部めがけダッシュしたことなどは日常茶飯事。登校時、明郷中生徒でごったがえしていた忠節橋上で北高生の自転車と正面衝突したはずみで、かごからお弁当箱が長良川に真っ逆さまに落下。その日の昼食は皆から一品ずつ恵んでもらった事もありました。

これまで食にまつわる資格は必要に応じ取得してきましたが、四〇代になり、管理栄養士を取得するため人生二度目の大学受験をしました。仕事・育児・勉学の両立は大変でしたが、特権である学割をちゃっかり活用しながら四年間の大学生活を終えました。資格所得後、食は予防医学の観点で更に重要性が高まると実感し、高齢者・一人暮らし・子供の食の自立を促す活動を開始。健康寿命を延ばすための食生活の講演、認知症予防の三行レシピ、生活習慣病予防の簡単ヘルシー料理等、食で健康管理ができる発信だけでなく、パフォーマンスに大きな影響を及ぼすアスリート食の講演・メニュー提案もしています。

今では活動内容が広がり、生協・JAの認定講師、各種食品メーカーのメニュー提案、サポイン事業の顧問、NHK・メーテレの料理番組等を担当させていただいています。

三年前には災害ボランティアに参加し被災時における食の酷さを痛感し防災士資格を取得。自分の命は自分で守る自助力の形成を促すため、どの家庭にもある乾物と缶詰を使って簡単に料理ができる「乾・缶・簡料理Ⓡ」を考案。非常時、貴重な水源を再利用し誰でも簡単に食べ慣れた食事が作れる料理方法は、柴橋岐阜市長のご理解のもと、共に動画撮影、手軽さと重要性の発信におおいにご助力いただきました。

高校在学中の思い出で鮮明に残っているのは、プラネタリウムのような美しい星空を屋上で寝転がってみた林間学舎。子供の在学中に保護者の立場として参加。中には当時の同級生もご一緒され、プチ同窓会の気分で童心に戻り存分に楽しみました。

仕事や人との繋がりを通じて「さくら組」の知性と誇りを体現する輝く同窓生たちが岐阜にとどまらず日本全国幅広く活躍されていることを多々実感する毎日です。

週末早朝、千仭の嶽金華山に登頂し、頂上で朝日のパワーを浴び、百里の水長良川を眺め心身ともにリフレッシュする事が数年前からの習慣となっています。今後もこの自然あふれる岐阜で、食で繋がる皆様に感謝の気持ちをかみしめながら健康提案をしていきたいです。

岐高水泳部での思い出

平成元年卒 3年8組
浜崎 貴敏

今、岐阜高校に行くと、一〇年ほど前に建替えられて大学のようになった校舎が出迎えてくれます。とても素晴らしい校舎なのですが、少し寂しく感じます。なぜなら私の高校生活は、プールと共にあったからです。

小さい頃から水泳を続けてきた私は、高校に入ったら、水泳部に入部することを決めていました。

入部した春、五月の連休後、まだ肌寒い日もある頃から泳ぎはじめます。その当時長良川の水をそのまま流し込んでいると噂されていたプールの水はとても冷たく、唇は真っ青になり、震えが止まらなくなるほどです。練習の後、一斗缶の焚火にあたりながら、先輩マネージャーの方が出してくれたホットミルクティーの温かさが忘れられないのですが、昭和とはいえ、プールサイドで焚火なんてやって良かったのか…。

しかし、私の中では楽しい高校生活のはじまりの良い思い出となっています。

プールの水があったのか、先輩達に恵まれたのか、苦しい練習も楽しくでき、それまで目立った成績も出せなかった私が、一年生の夏の東海大会に出場することが出来たのです。その時の先輩達に、いろいろなことを教えてもらったことは、私の財産になっています。

まだまだ高校生活は続くのですが、それは次の話として、同じ高校に進んでくれた娘のことで岐阜高校に行くたびに、西門のかたわらにプールの無いことに時代の流れを感じています。

その後、いろいろなスポーツをやって来て、今は、息子と一緒に始めたテニスを楽しんでいます。おじさんになってからのテニスは、ストイックにやっていた高校時代の水泳の練習と比べるとなんて楽しい事かと、高校の同級生とも一緒に活動しています。息子には、とうに抜かされていますが、それも嬉しいことです。

現在は、岐阜市の西の端にて寿司店を営んでいます。父親が始めた小さな店ですが、地域の皆様に美味しい寿司を召し上がってほしいと地道に取り組んでいます。コロナ禍に翻弄されながらも、毎日進んで行きたいものです。

岐阜の介護と福祉を考える

平成11年卒 3年1組
渡邊 雄介

同窓会会報誌への寄稿依頼を頂き、一度も同窓会へ参加したことのない私でいいのか、とも悩みましたが、これも何かのご縁、「頼まれごとは試されごと」と思い、お引き受けしました。一度も同窓会に参加したことはないとはいえ、決して岐阜高校愛がないわけではありません。ただ、単純にタイミングが合わなかった、それだけだったんです。今回、この機会を頂き、これを機に同窓会へ出席を試みようとも思っております。

同窓生の近況ということで、僭越ながら、私の現在をご紹介させて頂きます。私は、作業療法士として、発達障害児、重症心身障害児などのリハビリテーションに従事しております。一〇年間は民間の医療機関で勤めました。その後、子どもたちの居場所づくりを目的として独立して、通所介護施設(高齢者のデイサービス)、障害児通所サービス(放課後等デイサービスなど)、訪問看護ステーションなどを運営する会社を起業いたしました。そして、令和四年四月で一〇周年の節目を迎えようとしています。先日念願かなって本社施設を岐阜市下奈良に建設し移転することが出来ました。もともと、各地に点在していた事業所を集約し、障がい児から高齢者までが安心して過ごせる居場所として、「共生型」の総合施設を作ることが出来ました。福祉施設、介護施設は郊外に建てられることが多いのですが、今回はあえて、県庁のおひざ元に居を構えることにしました。子どもたちから高齢者までが生き生きと笑顔で過ごす居場所を、ぜひ皆様に知ってほしかったからです。高齢者施設、障がい者施設は暗いイメージをお持ちの方が多いと思います。しかし、実際は違っていて、弊社の高齢者デイサービスでは、利用者の方が生き生きとされています。趣味をされている方、お友達と将棋やオセロに興じていらっしゃる方、リハビリをなされている方、みなおもいおもい過ごされています。また、子どもたちは、保育士の先生方と笑顔で廊下や庭を走り回っています。全然暗いイメージなんてないんですよ。他のサービスと違うところは、高齢者と子供たちがいつも触れ合える距離にいるところです。コロナがなければ、行事はいつも一緒に行っています。自閉症と言われている子が、気難しいと言われている頑固なおじいちゃんのお膝に乗ってお誕生日会をやる姿は、珍しくありません。ぜひ、コロナが落ち着いたらいつでも見に来てください。きっと驚く光景がそこには広がっていると思いますよ。

「人生、百年時代」、この言葉がささやかれるようになって久しいですが、私は、人は最期の瞬間まで役割を持ち、人に感謝されるべきである、と常づね思っております。年を取って、介護してもらって「ありがとう」を言って終わるのではなく、「今日も来てくださってありがとう」「今日も我々の知らないことを教えてくださってありがとう」最後まで感謝をされて過ごしていただきたい、それが私の願いでもあります。

そんな、施設を目指して、「百折不撓」の精神を肚に据え、日々スタッフと共に、笑顔で頑張っています。

あの頃の思い出とともに

平成11年卒 3年5組
坪井 文菜

今回、同窓会会報の寄稿依頼をいただき、高校時代以降を振り返ってみました。私は平成一一年に高校を卒業したので、現在まで、二三年という長い年月が経とうとしています。

私は、旧穂積町(現在瑞穂市)出身であり、最寄りの穂積駅からJR 東海の電車に乗り、岐阜駅で降り、当時はまだ市電電車が岐阜市内を走行していたので、岐阜駅からは徒歩・自転車・バス・市電電車の四つの方法で登校していました。朝、岐阜駅に到着した時間や、その日の天候、その時の気分で、どの方法で高校まで辿り着こうか考えるのが、よい気分転換になっていました。

つい先日、岐阜市役所を見学した帰りに、高校に寄ってみたところ、校舎は以前の面影が全くなく、キレイな建物に様変わりしていました。私たちの頃は、本当なのか嘘なのか、校舎の床が傷つくから、という理由で、革靴は禁止、スニーカーのみ許可されていました。スニーカーにルーズソックス、大半がリュックサック、というのが、当時の岐阜高校生スタイルでしたが、今はどうなのでしょう。

高校卒業後は、岐阜大学医学部に入学し、大学卒業後、一旦岐阜を離れ、愛知県内の病院で約十年勤務したのち、やはり地元で、特に医師不足とされていた岐阜県の医療に少しでも貢献したいと思い、六年前より大垣市内の産婦人科クリニックに勤務しております。

現在は三児の母として、仕事・育児・家事に奮闘する日々を送っています。朝起きてから、まずは夫と三児を見送り、自分の支度はそのあとです。クリニックでは、妊婦健診や子宮がん健診などの外来業務、合間に出産があれば立ち会い、午後は帝王切開術などをこなしております。【母子ともに無事に出産を終えること】、そのお手伝いができるこの仕事に、誇りを持ち、そして、関わらせていただける患者さん・スタッフに感謝の気持ちを持って、日々診療にあたっています。私にとって、この仕事は生き甲斐であり、大変濃厚で充実した時間で、あっという間に過ぎてしまいます。その後が第二ラウンド、保育園に迎えに行き、夕飯の準備をし、子供達に食べさせ、お風呂と寝かしつけを終える頃、夫は帰宅します。あーあれもやりたかったのに、あそこの片付けもしたかったのに、と後悔の塊とともに眠りにつくのが、ある意味幸せなのかも、と思う今日このごろです。

末っ子が一歳になる頃、やりたかった念願のキャンプを始め、キャンプ場巡りが楽しみの一つになっています。

テントの中でエアーベッドを膨らませて寝るだけで、子供達はとても喜んでくれ、テンションはマックスです。夕飯は、焼きそば、焼肉、炊き立てごはん、野菜スープ、朝食は、チーズとハムを挟んだホットサンド、コーンスープが定番です。特に凝ったキャンプ飯ではないのに、子供達がめっちゃ美味しいって喜んでくれます。まだまだ、岐阜県内各地のキャンプ場巡りは続きそうです。地元岐阜を愛しながら、これからも堪能させていただきます。

岐阜高校、再入学

平成11年卒 3年7組
田中 良平

午前零時二分名古屋発東海道本線終電車。木曽川の橋脚を過ぎ、列車は緩やかに左に進路を変える。決まって右側に腰を下ろす私の目に、市街の灯りを見下ろす、黒々とした千仭の嶽が迫る。

堅牢な堆積岩からなる独立峰である金華山の威容は、起伏の少ない濃尾平野のなかにあって、標高三二九メートルでありながら、突如現れた壁のように立ちはだかり、いよいよ始まる厳しい山間部への門扉のようにも見える。

しかし、岐阜に育ててもらった私の目には、黒々としたその姿は、むしろどっしりとした優しささえ湛えて映り、不思議と毎度心が和む。

私はいま、猖獗を極める疫禍の小康を見ながら、岐阜と東京を行き来する生活をしている。岐高の同窓である妻と結ばれて、息子ともども都内にいたのを、息子の進学を奇貨として、二人の実家からほど近く、金華山の南裾、梅林の香りが届く昔家に越し、のんびり手を入れながら暮らしている。学生時代から続けている予備校講師業は、この状況にあっても需要が高く、私だけは都内に留まり、単身赴任の現し身で、金曜の終電車に飛び乗って帰岐の日々。闇に浮かぶ金華山が、迎えてくれる週末だ。

岐高を卒業後は、東京外国語大学に進学。英語を主専攻とする科に属しながらぼんやりと国際関係論を志していたところ、言語としての英語そのものと、英米文学に没入。研究者となる道も模索したが、生きる糧のための講師稼業が、気づけばすっかり板に付き、今日に至る。学生時代も含めれば足掛け二四年。毎年四、五〇〇人の学生を迎え、累積で一万人近い学生を指導してきた。

昔は良かったと、懐旧趣味に走ってしまえば教師の賞味期限は切れたも同然。しかしこのところよく思うのは、地方出身者の知的貪欲と、あの頃の岐高に瀰漫していた朗らかな冀求心である。

都心の進学校に通う学生をもっぱら担当しながら、特別公開授業などでは、地方の学生をみることがある。かれらの目の輝き、納得なくして前に進まぬ頑なさ、なにより、いま学んでいることが役立つかという狭隘な功利主義とは無縁の、学ぶこと、知ること、考えることそのものを楽しむ姿に、四半世紀前の岐高生を重ね合わせる。多分にノルタルジイが悪戯をしているだろうし、都心の学生を照らす学燈も決して全てが暗くはないけれど、そんな目をした学生が、この岐阜という街にも、あの大縄場の学び舎にもまだいるだろうと想像するのも愉しい。東京で働く身の安泰を、岐阜暮らしの心の安寧と入れ替えて、これまで培った経験と智慧の種を、故郷に蒔く毎日もいいかなと思う。

戻ると、家族と過ごす合間を縫って、市内をひとり見て歩く。遅刻を恐れ、自転車で駆け抜けただけの岐阜が、ようやくいま、私には見えてくるようになった。見上げれば金華山。水路をたどれば長良川。鄙びた街並みの味わい。住まう人々の温かさ。不惑を過ぎ、心の中の岐阜高校に、もう一度私は入学した気持ちでいる。

ごちゃまぜが面白い!!

平成11年卒 3年9組
上松 恵子

受験番号一番!岐阜高校の合格発表の日。自分の番号を見つけてほっとした日のことをつい先日のように感じます。一五歳の私はこの学び舎で学べることに期待でいっぱいになりました。(その当時はボロボロの校舎でしたが、憧れの学び舎はキラキラして見えました笑)

たくさんのことを恩師や学友から学びましたが、特に印象的だったのは、突き抜けている学友が多いということでした。一つの教室の中に、野球や卓球、そして合唱、化学。文化祭では短編映画をつくったり・・・など、自分が熱中できることに徹底的に向き合う学友を尊敬していました。そして、自分と違うことをしていても、適度な距離感で見守ったり。応援したり。個性がごちゃまぜになりつつも、お互いの個性を尊重し、面白がれる。その空間を心地良く感じました。勉学にも秀でつつ、トンがる部分もある学友と席を並べられることが、誇りでもありました。

現在、私は岐阜市内に住みながら、二つの会社に関わっています。一つは、女性の活躍に関する研修やコンサルティングを実施する株式会社の代表取締役。そして、もう一つは、大学(特に名古屋大学工学研究科)の博士課程の研究支援。このように書くと、共通点がないように感じますが、私の大切にしたい価値観「ごちゃまぜが面白い!!」が根底にあります。「ごちゃまぜの組織をますます面白くなるようにすること」は、「ダイバーシティ&インクルージョン」や「チームビルディング」支援にも繋がっていると感じます。

例えば、女性の活躍支援では、女性社員(や、その上司)の方の働き方やコミュニケーションのご支援をしながら、職場での活躍をサポートしています。男性・女性関わらず、一人一人が生き生きと働ける職場になることで、職場の多様性を豊かにする。そして、お互いの違いを認めつつ、遠慮や忖度なく、お互いの気づきや意見を伝え合える。そんな関係性を築くことで会社のイノベーションや業務改善につながっていきます。ある製造業の会社では、パートの女性社員のふとした一言から大ヒット商品が生まれる!なんていう素敵なドラマもありました。

また、大学の研究支援では、社会が急速に変化していく中で、スピード感を持って研究を社会実装するために、チームになって活動する支援をしています。このチームには、中国や韓国からの留学生も半数程度入り、専門分野も多様です。だからこそ、最初はお互いの背景や想いを理解するまでに時間はかかりますが、チームが一丸となった時、ものすごく大きな突破力が生まれます。「早く行きたければ一人で行け 遠くに行きたければみんなで行け」のごとく、学生たちがチームで果敢に挑戦する姿はキラキラしています。

まさに、「ごちゃまぜが面白い!!」としみじみ感じる毎日です。今年の同窓会のテーマ「トランスフォーマー」にも親和性を強く抱き、私の大切にしたい価値観を育んでくれた原点は岐阜高校にあるなぁとしみじみ感じております。

NEW

RANKING

岐阜高校同窓会