岐阜高校
岐阜高校同窓会

2021.08.24
恩師からの便り

林間学舎―西穂高岳をめざして

杉山 仁

日本アルプスに囲まれ、白樺林の台地に立つ岐阜高校の「林間学舎」は、県内の高校のどこにもないすばらしい建物である。ここで岐高生が行う二泊三日(一年生)の活動は、思い出深いものであろうと思う。

広大な自然の中で、起居を共にし健全な心身を養い、円満な人間関係を形成するという目的を達成するための最高の場所と言えよう。

豊富な研修内容は、「林間学舎の栞」の中に明確に記され、それに従って活動する。私が引率、付添いした生徒諸君は、全てきちんと計画を守り行動し、さすがだなと感心し嬉しく思ったものである。

活動の中で最大の目的は、「西穂高岳」への登山である。新穂高ロープウェイの終点から、一歩一歩登り始める。しばらく森林の間を歩くと西穂高荘に着く。ここで一休みするも、ここからが高山特有の岩石のガラ場を登ることになる。目標は「西穂高岳・独標下のお花畑」を目指す。一歩一歩が苦しくなる。これを耐えねば目的地に到達できない。皆体力をふりしぼり、ガラ場を登る。

息をととのえた所で、前方や左方向を望むと、穂高岳・槍ヶ岳などの三千メートル級の山々や、特色ある笠ヶ岳・槍ヶ岳などが眼前にせまりその絶景に息をのむ。苦労して登ってきた苦しさも、吹っ飛んでしまう。

右目下には、上高地や大正池の美しい風景が広がっている。

生徒諸君は、落伍する者もなく、元気一杯であることに、よろこびを感じたものである。

「栞」(昭和五六年版)の折込頁に、『学舎周辺の鳥瞰図』を描かせてもらった。日本アルプスの全貌を把握していただけると思う。

キャンプファイヤーも楽しかった。

杉山 仁 先生

二つの出会い

高田 睦

七〇歳を超えてから異国を巡り歩いた日数は計五○九日、その中に特別大切な記憶が二つあります。

二○一五年九月二日、フェルメールの故郷デルフトでの夕刻を散策中、市庁舎裏の運河のほとりに三人組の撮影隊を発見。市庁舎で結婚手続きを済ませた花嫁・花婿と二人にポーズをつける女性カメラマン︱人通りが少なくなる時刻を待って記念撮影を始めたようです。アーチ橋の上に二人を立たせて向こう岸へ降りた女性は、右手で三脚上のカメラを操作しています。私は『Congratulations!』と二人に声をかけて橋を渡り『お手伝いをさせてください』と言いながら反射板の方へ手を伸ばしました。臨時助手が掲げる反射板の角度を時折調整しつつ女性は撮影を終えました。そして私は『Thank you somuch!』と言って駆け寄って来た花嫁、花婿の輝く笑顔に挟まれて“幸せのお裾分け”に与ったのです。

二○一八年四月五日、ブーツのつま先にあるカラブリア半島の漁村シッラを訪れた時のこと。イタリアの春の旅では至る所で修学旅行生や社会見学の子供たちと一緒になります。この日もシッラから駐車場まで戻る夕暮れの道は混雑していました。私が杖をついて歩いていると、数歩ほど前の位置にすーっと現れた若者が腕を組もうと誘うようなポーズでこちらを振り返りました。私も迷わず歩み寄って片腕を預け、エスコートされる晴れやかな気分に浸って一日の疲れを忘れていました。グラフィックの勉強をしているという一八歳の専門学校生は少しも照れたりせず、また友人たちも彼を冷やかしたりせず、ごく自然な優しさで高齢女性を包み込んでくれました。彼らの未来への挑戦に対して遠くエールを送っています。

高田 睦 先生

久しぶりのアルバム

土川 裕

岐阜高校を去って四二年、何を書いて良いのか分からず、取り敢えず卒業アルバムを出してきた。アルバムを開くのは何年ぶりか。

まず目に入ったのが懐しい校舎の写真と校歌です。「千仞の嶽 金華山 百里の水 長良川…」歌ってみると今でも歌うことが出来た。全校集会時、生徒と共に歌った記憶があり、伝統を感じるすごい校歌だと思った。

クラス写真のページでは忘れかけていた顔と名前を確認しながら、それぞれが授業、部活動、学校行事等、何事にも真剣に取り組む姿を思い浮かべた。

部活動はどの部も短時間に集中して活動していた。その中でいつの年度か定かでないが、軟式テニス部はインターハイに、硬式野球部は甲子園に出場した記憶が残っている。私も甲子園球場で応援するという貴重な体験をした。私はバドミントン部顧問の山田(喜)先生に教えて頂いたことが切掛でバドミントンを始めた。その後、趣味として長いこと楽しんだ。私が五〇年以上続けた肝心のバレーボールは残念なことに良い成績は残せなかった。

さらにアルバムをめくると多くのことが…。最近、過去のことを思い出すことなく生活していた。今回、久しぶりにアルバムを開いたことで多くのことが蘇った。その多くは生徒や先生方が私に下さったものだと改めて思った。みなさんありがとう。

最後に近況報告を少しだけします。

毎日、自宅周辺を散歩することと花などを育て観察(本当はぼーと見ているだけ)することを楽しみ、のんびりと過している。(以前は体力に自信があったのに、今は散歩しか出来ないというのが実情です。)

土川 裕 先生

「明け暮れ学ぶ」は何の為

安江 雅和

同窓会総会の開催、心より慶賀申し上げます。コロナ禍で催事自体が控えられる中、多くの有志が開催に漕ぎ着けようと腐心されていました。折節、SNSを通して垣間見聞きしてきました。膨大な時間を費やして学友や恩師の消息を追うなど、その無償で惜しみない尽力に驚異と敬意を禁じ得ませんでした。「ここの卒業生は素晴らしいな」と心底思いました。

私は昭和五一年から二年間勤務。忘れもしません、初任校でしたので。あの日々は印象深く刻印され今も鮮明に蘇ります。そこから既に四〇年有余の星霜が経過しています。その後の勤務校と比較すると短時間ですが、実に豊かな時間でした。さまざまな分野で活躍する方々と偶さか今も交流があることに有り難さを感じます。今から思えば不遜、赤面の至りですが、年齢が近く何だか弟や妹が突如出現したかのごとき感覚で勤めさせていただきました。

私のような人間には「国家の為に明け暮れ学ぶ」という校歌の聊か時代錯誤的な一節は抵抗があり過ぎました。但し、今と違って当時の校舎は定時制課程と共用している教室も多く、通信制課程もありました。就学困難な中で学ぶ機会を得た多くの学生が集う「学び舎」でもありました。私の姉も此処で学び、道を拓いた卒業生の一人です。そのことも嬉しく、ここは「学び続けること」を保障する場なのだから「国家の為」ではなく「意味深く生きる為」に明け暮れ学ぶところと読み替えることで違和感を解消していました。

古稀を迎えた今もなお若者に寄り添っています。岐阜高校で皆さんに紛れ込むようにして過ごした二年の歳月は、私にとって紛れもない原点となっています。

安江 雅和 先生

近頃 薄くなったこの頭を
よぎること あれこれ

橋本 正人

今の自分の歳よりずっと若くして前途ある優秀な卒業生が仲の良かった友人がまた、尊敬する人生の大先輩が去ってしまったこと その無念…思い出す元気な顔 その声 四〇年前の学校でなんと“一週間”もの休みを取っての皆既日食観測の旅しかも三回!その話題でLHRをやったことなんと悠長な時代であったことか… 生徒の内面の気持ちが判らずにある生徒の個人懇談のときの私の対応や言葉で傷つけてしまったこと。あのときなんであんなこと言ってしまったかなあ……と今でも悔んでいます(本当ですよ) USA For Africa* に感銘を受けて“We are the World”のOfficial VTRを手に入れてLHRでクラス全員で見たこと。何年か後来日コンサート時にHarry Belafonteの温かい手で握手してもらえる夢のようなチャンスがあり、直筆のサインをしてもらいました。家宝です!(*United Support of Artistsfor Africa) クラスではおとなしくて普段あまり目立たなかった子が卒業後だいぶたってから、アフリカへの海外赴任先での活動の様子を伝えてくれたのがなぜかとっても嬉しかったこと。

当時ちょうど理科Ⅰという新しい科目が始まって一年生の理科で地球や宇宙の話を、受験を意識せずに授業でき、楽しい時間がもてたのはホントに良かったとおもう。いまはどうなのかな 中尾の林間学舎での星空観察と、山からの流水を竹で流しての食器洗いの方法に感心。今でもそれを活かして私は毎日実践。“汚れた食器はまず下流に浸けろ!”なかなか分からない子がいたナ。

忘れもしない退職の年のあの三月一一日 他の高校で教えていましたが、あの大震災・福島原発事故を物理室で迎えたこと。当日ひとり物理実験室でこそこそ動き回っていた私は、揺れには気付かず、隣の部屋の教員がびっくりして飛んできて初めて地震のことを知りました。その後は学校の職員室でも毎日被災状況を流しまくるTV映像にくぎ付けだったのは言うまでもありません。

少し経った三月二〇日ごろ、今この文章を書いているいまごろのことです。卒業式を終えた後、震災直前に、希望する卒業生数人を集めて物理室で補習講義したときに使ったままの、備品のガイガーカウンターをとって、何気なくスイッチを入れたとき、一瞬壊れた!と思いました。カウンターが激しく点滅して、“ジャージャー”という異常な音とともに見たことが無いほどの線量を告げていたのです。なにしろ普段はときどきポッ…ポッ程度のカウントですから。ほどなくして、どうやら放射性の希ガスがここまで広がっていること、その放出総量の膨大なことを想像して驚愕しました。たまたま一緒に居てこのとき実際にこれを見た他教科の教師数人以外にはなかなか信用されないかもしれません。あのころ、まさに日本は“人の住める国土の永久消滅”の瀬戸際だったのですよ。外国での報道との落差に愕然とし、テレビで流れるニュースが素直には信じられなくなりました。悲しいことにこれは今に至っても解消されてはおりません。

その年の秋から東北のあちこちを直接見る機会を得るにつけ、以前にも増してますますケンジ先生に傾倒し、時間と空間とを自由に融合させて感じることのできるその感性に一歩でも近づきたい、イーハトーヴに生きるものすべての“声”をホンタウニキケルモノニナリタイと思うこの頃です。まだまだ足元にも及びません。

橋本 正人 先生

自然界の営み

石田 啓介

東日本大震災・津波・原子力発電所の爆発事故から一〇年経過。一昨年から新型コロナウイルス性肺炎症及びその変異ウイルスの蔓延に全世界が苦慮している現状です。災害復興と感染症の終息を願うばかりです。

同窓会総会及び懇親会の開催おめでとうございます。

以下、私の趣味の一端を記述します。

野山の散策にかまけて
初春から晩秋まで山県市の日永岳・舟伏山・相戸岳の山々を散策。夏緑樹林の山合いを流れる水量と音の変化に興味を抱く。

山の冠雪時
谷川の水は少ない。一定の水量を流すも水音は小さい。雪融けと共に水量は増す。水音が谷間に響いて心地よく聞こえる。

落葉樹の芽吹き
芽吹きが始まるに従い谷水は少なく、音も小さくなる。樹木の蒸散作用、地中の水分を大気中に放出。春霞が見られる時期だ。

菜種梅雨・梅雨時
降雨とともに水量が増す。水音も大きくなる。けれど、音は谷間に茂った木の葉などに遮られ、余り耳に届いてこない。樹木の盛んな蒸散作用により、谷間を流れる水も驚くほど多くはならない。

梅雨明け
水量は徐々に少なく、谷の水音も小さくなってくる。台風や豪雨などで、水嵩が急激に増加する。それでも、一週間もすれば元の水量に戻る。

夜間の気温が一〇℃を下回る
気温が下がり、樹木の蒸散作用が低下。谷川の水は増してくる。音も大きくなってくる。木の葉が紅葉・落葉する頃になる。茂っていた木の葉が水音を遮ることもなく谷間に響く。雨など降れば、その量はそのまま谷間を流れる。

渓流魚の産卵
秋雨が降る時期には、その水量に乗って、イワナやアマゴが谷川の上流に遡上する。谷の所々には落ち葉が詰まり、水を塞き止めプールを造る。瀬では砂利や細かい砂が溜まっている。こんな場所で、イワナやアマゴが産卵する。水温は低く、溶存酸素も多い。藻類の繁殖がない。卵にとっては細菌類に犯されることもなく安全である。魚にとっても、プールに溜まった落ち葉に守られ安全である。

アマゴの産卵

夏緑樹林の恩恵
春になり水温が上昇する。夏緑落葉樹の落ち葉は川の中で分解され有機物となる。動植物プランクトンが繁殖。水生昆虫や孵化した稚魚も成長。上手くできている。

谷の上流にスギやヒノキの植林がなされると、谷の様子は変化する。常緑針葉樹では、林床に日の光が届きにくい。冬季でも蒸散作用がなされること。落葉を分解する生物が少ないことなどである。このため、谷は貧栄養塩類の流れとなり、動植物プランクトンの繁殖が極端に少なくなる。結果、水生昆虫や魚類も少なくなると。

石田 啓介 先生

皆さんから学んだこと

虫賀 文人

とにかく凄かった平成九年度卒業生の皆さんとの出会いが、私の教育方針を大きく変えました。

それまでは、「俺についてこい」的な熱血先生と呼ばれることに誇りを持っていましたが、皆さんから、生徒の可能性を信じ、レールを敷かないことの大切さを学びました。

そのきっかけとなったのが、生徒会執行部を中心に出場したディベート全国大会での優勝でした。元はと言えば、この大会への出場は、文化祭の全体鑑賞でディベートを行うための視察から始まったものでした。

当時、生徒会の顧問をしていた私は、「ディベートは堅いので文化祭の全体鑑賞にはそぐわないのではないか」と否定的でしたが、生徒会執行部の度重なる訴えに押されて了承しました。文化祭本番では、優勝メンバーは裏方に回り、一般の生徒たちを中心にディベートが展開されましたが、大いに盛り上がり、大成功を収めました。

その時、私は、教師が自分の思いだけで生徒の可能性を決めつけてはいけないことを、生徒には無限の可能性が広がっていることを学びました。ここから、生徒の自主性を重んじる教育に方向転換していきました。

以降、私がモットーとした言葉が、「発見する喜びは生きる幸せである。どんなものでも自分で見つけたら宝物、どんな場所であっても自分でたどり着いたら宝島」です。

こんなお話をさせていただいたのは、皆さんへの感謝の気持ちと日常生活の中で何かの参考になればと思ったからです。

現在、私は相変わらず教える立場にいて、そのために日々、学び続け、それが生きる力になっています。皆さんもお元気でご活躍ください。

虫賀 文人 先生

『時は流れども』

林 達郎

平成五年、教員として赴任した時の岐高は、その僅か一〇年前、自分が生徒だった頃に比べて、いくつもの変化が目についた。生徒当時、被っていないと叱られた学生帽や「山貞」が横向きに入る厚みがあるよう指導された皮製の黒い手提げ鞄は姿を消していた。革靴タイプでない白色の靴という規則はなくなり、鞄も靴も自由化されていた。時代とともに社会は変わり、学校も変わったものだと感じた。

林間学舎。生徒当時は、国道四一号線を北上し宮峠を越えていたが、せせらぎ街道を通ることで大幅に時間短縮された。現在は東海北陸自動車道でさらに近くなったことだろう。生徒当時は、飯盒炊さん、西穂高岳登山、オリエンテーリング、キャンプファイヤーを三泊四日で実施していた。登山は、新穂高ロープウェイの終点から西穂山荘、お花畑、独標まで行った。学舎周辺を散策して回るオリエンテーリングでは、坂をずいぶん下ったところにある双子松のポイントがとても遠かったと記憶している。そのオリエンテーリングはなくなり、キャンプファイヤーも周辺住民の反対からか室内でのキャンドルサービスになっていた。さらに数年後には二泊三日となり、乗鞍登山となった。研修内容に変化はあるものの、眼前にそびえる錫杖岳の岩壁と八階建てを思わせる写真に現物を見てびっくりした「伝統ある建物」は、変わることなくその佇まいを留めていることであろう。雄大な自然の中での体験は、いつになっても変わらぬ素晴らしい思い出である。

時代とともに、学校を取巻く環境や活動内容は変わっていく。しかし、時は流れども、「百折不撓・自彊不息」の精神と優秀な生徒たちが切磋琢磨する岐高は、いつまでも変わらないでいて欲しいものである。

林 達郎 先生

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