岐阜高校
岐阜高校同窓会

2021.08.25
長良川川原町ぶらぶら歩き

長良川の美しさを満喫し、おいしい料理をいただいて、楽しいドラマを見ませんか?
旅館「十八楼」女将・伊藤知子さん、
クッチーナコンタミナート「カンポドォロ」オーナー亀山克憲さん、
そして脚本家・林 誠人さんに、
未来への夢と希望について語っていただきましょう。

誰とも会わなければウイルスはうつりません。しかし、私たちは、家族や仲間を作り、高度なコミュニケーションをとることで、ヒトへと進化しました。誰とも会わない事は、酷く社会生活と心を脅かします。
しかし、決してあきらめず明日に向かって前進する三人がいます。その真面目でちょっと楽しい話から、明るい未来を切り開くエネルギーとヒントをいただきましょう。

伊藤 川原町は川湊で斎藤道三のころから城下町として栄えています。上流からは材木や美濃和紙が、海からは海産物が運ばれ、この町で荷解きされて各地に送られました。十八楼は旅館業を営み、昨年創業一六〇周年を迎えました。

十八楼女将 伊藤知子さん
十八楼 川原町蔵風呂

困難があるたびに地元の方々に助けられてきたと祖母や母から聞きます。昨年はコロナ禍で、想像すら及ばず数ヵ月休業しました。「お邪魔できるようになったらすぐ行くからね」と皆様に励まされ、自粛が明けて、近所の皆様がお泊まりにお越しいただきました。地元に愛されているからこそ一六〇年間旅館業を続けることができましたこと、感謝しております。この町に恩返しをと館内に学習塾を設け、少しずつではありますが子どもたちの教育や体験に力を注いでいます。岐阜の人こそ、岐阜が素晴らしいと発信することが苦手だと感じていますので、子どもには郷土愛をしっかり持って外に羽ばたいてほしいと思います。

亀山 私は県内で料理店を始めてかれこれ三〇年ほど経ちます。雄総、穂積で二軒、大きな店を経営していましたが、六〇歳を過ぎてから自分が本当にやりたいことをしたいと思い岐阜市役所旧庁舎裏に移転しました。規模を小さくすることで好きな食材も使え、やりたいことができます。岐阜は食材がとても豊かで恵まれていて、川、海、山のもの全てが使えます。パリでは二〇〇キロから三〇〇キロ圏内のものも地元産と言い自慢しますが、岐阜ですと敦賀から三重まで入ってしまいます。美濃だけを見ても夏はサツキマス、アユ、秋になると川ガニ、冬はキノコ類がたくさんとれ、美味しいです。こんな素材をしっかり使って自分の好きな料理を作れることが幸せだと思い今に至っています。

カンポドォロシェフ 亀山克憲さん

しかし昨年八月、私は新型コロナに感染しました。店は、五月末に最初の緊急事態宣言が解除されて以来大変忙しく、僕自身、免疫もかなり弱っていたようです。店の従業員、といっても家族ですけど、手洗いほかあらゆることを、普通よりかなり気を付けていたつもりでした。具合が悪くなり、同級生が医者をしているので電話をしたら、「多分コロナだから、市民病院に電話するので、そのまま入院して」と言われ、入院したところ、中等以上というかなり重症に近い状態でした。悪くすれば、エクモを翌日に着けなければいけないという状況で、僕は全然知らなかったのですが、奥さんには今日、明日が境目です、と電話があったらしいです。その時保健所から感染について店名を公表するかと問われその頃はもう思考能力も全くなく、ただ一つ思ったのは、誰かに僕と同じ思いをさせてはいけない。公表して、お客様や業者の方がすぐPCR検査を受け早く処置をすることによって、少なくとも命を助けることができる、ということでした。やっと自分のやりたい店をやって、軌道に乗ってきたことが駄目になるのかなという恐れもありました。それでもやはり、僕を育ててくれた人たちに迷惑を掛けることが一番駄目だと思い、公表しました。幸い、お客様も業者の方も一人も感染がなく、私と家族だけの感染で済みました。入院時、妻から「すごいよ」と電話があり、「何が」と聞くと、店のシャッターに「ファイト」と書いた紙が貼ってあると言うのです。普通のメモ用紙に走り書きで「ファイト」と書いて貼ってあるのよ、という話を聞き、涙が出ました。コロナ感染で誹謗中傷を受けるという報道を目にしていましたが、そうではなく、頑張れと応援してくれる人もいるのだ、世の中捨てたものではない、という思いが湧きました。その後も続々、ポストに励ましの手紙や葉書が結構入り、すごくうれしかったですね。

退院後、店の再開をするかどうか気持ちの整理を付けるのが大変でしたが、近所の方など、励ましてくれる方々のおかげで、頑張らなければ、という気持ちで今に至ります。だから、百折不撓ではないですけど、世の中はやはり自分一人ではなく、そういう周りの方にたくさん助けられているし、僕は、特に昨年、そういう思いをたくさん味わいました。

 放送や映像、映画業界のクリエーターが、このコロナ禍でどうなったかというと。モノを発想するには、無駄がとても必要なんです。無駄な会食、無駄なスモーキングの場所。そういうところでの雑談の中から、ふと凄い発想が出てきたりするんですね。それが今、リモートが主流になって、人と会って無駄な話をする時間がほぼ無い。クリエイティブな発想というのは、一人で考えていても難しいものです。誰かが何を言ったから、それにこうしよう、ああしよう、だったらこうしよう、と言い合って、アイディアが広がり、モノは創られてきたのに、それができない。

それに例えば、テレビドラマなどの撮影をする時も、このシーン、はいスタートと言ってから、カットになるまで、役者さんたちはそれぞれ、このシーンはどんな気持ちでどう演じたらいいのかを、いつもディスカッションしています。このセリフはこういうふうに演技してみるから、こう受けてくれとか、そういうコミュニケーションも、今はできない。全員がマスクをしてディスタンスを取って、黙っていて、はい本番。これではね、面白いものは生まれない。つくづくひどい時代だと感じています。

脚本家 林 誠人さん

高校の話をします。僕は二六歳の時に「特捜最前線」っていうドラマでデビューしました。そのドラマ総括は、岐阜高校出身の高橋正樹さん。二〇歳ほど上の大先輩でした。その後、反町隆史さん主演の連続ドラマをTBSでやりましたが、チーフプロデューサーは、伊藤一尋さん。四学年上の先輩です。四〇代になって、伊東四朗さんの二時間ドラマのシリーズを担当するようになったのですが、その番組のプロデューサーは、テレビ東京の橋本かおりさん。彼女はクラスは一緒にならなかったけれどまったく学年が同じ同級生でした。「ドクターX」で技術スタッフをまとめていたのは、テレビ朝日の説田比登志くん。二学年下の後輩です。この業界にも、岐阜高校出身者がたくさんいて、そういう人たちと出会うたびに「僕は優秀な高校を出ているんだぜ!」っていう気概を感じてきました。

現役高校生だった頃の思い出についてはいかがでしょう?

亀山 僕がいた頃の岐高サッカー部は非常に強くて、県で優勝もしていました。僕はサッカーが好きで高校へ行っていたようなものです。岐阜県で大雨が降って、安八の堤防が決壊した時、校舎から長良川の水面が見えて、びっくりしました。普通、校舎の北側から川を見ると、左岸の堤防の先に右岸の堤防が見えるだけです。下方に生える草しか見えないのですよね。窓から向こうに水面が見えるというのは、非常に不思議で。自然ってすごいと思って、今みたいに警戒して堤防に寄るな、なんて言われることのない時代だったので、ちょうど、サッカーのトレーニングで堤防を僕はしょっちゅう走っていたので、その日も走っていたのかな、雨の中。本当に堤防道路の一メートルぐらい下まで水が来てました。すると漁師のおっちゃんがタモを持って、逃げてくる鮎を全部すくっているんですよ。おお、この人たち、たくましいなと思いました。岐阜高校に通っていたから、自然のすごさを間近に見られたのだと思います。
※ 一九七六年九月一二日の「安八水害」

他の学校が休校になっても、あそこの学校だけはなぜか休まないっていうか、本当になんか、損した感じになりますよね。

亀山 逆に、学校へ行って勉強しなさいとか、こうしなさいというのは、僕の頃は少なかったと思います。大体、土足でしたし。あの頃、土足の学校なんて少なかったですよね。

伊藤 私たちの頃も土足でした。

亀山 今は違いますけど、校舎が新しくなったので。

北校舎なんて砂だらけでした。

伊藤 主人は愛知県の出身で、いつもお互い笑い話になるのが、普通は最終学歴として「出身大学は?」と聞きますが、岐阜の人は、なぜか出身高校を聞きます。どうしてなのかと、いつも主人は不思議がっています。そこで、「岐阜高校です」と答えると、「いやぁ、実は僕も」「それはすごいね」「うちの孫も」などと返ってきて、岐阜高校出身ということで私はかわいがっていただき得をしています。私たちの代は第二次ベビーブームの頃、おそらく一番子どもが多い時代で定員五〇〇名のところ、志望者が五〇五名でした。だから受験当日に熱など出さなければ受かった、今では考えられない時代で、私もそこで紛れ込んでしまった一人です。岐高生らしくない岐高生として先生方にも覚えていただいていて、のんびり、のびのび、過ごしました。バレーボール部に入っていて遠征試合に行くのですが、スポーツ有名校に当たると、相手校の監督が「岐阜高校なんかに一点も取られるな」と大きな声で言われたのが印象的で、「五番狙え、五番」とかって、私五番なんですけどって(笑)。一点でも取られると「なんで岐阜高校なんかに取られたんや」などと言われたのが記憶にあって、勉強しか出来ないように見られているのだな、というのに驚きました。

林さんは三年生の時に、同学年の五人の女子に同じ文面でラブレターを出したそうですね。

 悪友何人かで、人気のある女子たちに、同日に全く同じ文面のラブレターを出そうってことになって、僕が書いたの。同じ日に、同じポストに投函して、五人に。それからしばらくは、その五人を観察するのが楽しかったね。勿論、誰からも返事は来ない。そりゃ、来ないよ。みんなキレイで、頭のいい人ばかりで、僕は出来が悪くてね。へなちょこ落第生だったから。

意外ですね、へなちょこだったんですか(笑)。

 僕はこういう職業をしているので、ウィキペディアに載っています。誰でも編集ができるので、間違って書かれている部分もあって、そこで後輩に、作品歴の整理を頼んだ。その時、経歴に岐阜高校卒って書いてくれと、自分で言いました。大学りもやっぱり、自慢したい。これは岐阜県人特有かもしれないけれど。同窓会なんてのは大体、在学当時の淡い恋心もあってみんな来るわけですよ、三〇代、四〇代ぐらいは。三〇代となって、あの時好きだった人と会いたいと思うのは当たり前の感情で。あの人はどうなっているんだろうって、会いに行って、あの時好きだったのよって、ちょっと大人になって、いろんな経験をしたら普通に言えるじゃない?

十八楼ロビーにて

亀山 だって、キレイになっていますもんね。女性は特に。

 そうそう、女性はみんなキレイになる。

伊藤 一〇年毎に同窓会幹事をしますよね。最初の幹事の年の時に、同窓会で仲良くなります。実際、カップルが二組でき、結婚することになって。

十八楼で披露宴をして、みんなでお祝いしました。岐阜高校を卒業した人は、やはり母校への帰属意識が高いと思います。だから、岐阜高校の同窓会は意義があるといいますか。ぜひ、皆さんに出席していただきたいなと思います。実はその結婚した二人の女性も、初めは出席を迷っていましたが、私が幹事の立場で誘ったら出席してくれました。そしてたまたま、同じ学び舎で過ごしたという縁で、こうして再会して、生涯の伴侶を見つけられたのです。共通点は岐阜高校で一緒に過ごしたということだけですが、それで何か安心感というか、信頼が芽生えたのだなあと思いました。幹事としてうれしかったですし、お祝いに同級生たちがみんな、駆け付けることもできて、ご両親が一番喜んでいます。同級生でお互いを知っているから、絆は固いでしょう。私は同窓会でそんな良い経験もしました。

 三〇代はみんな仕事をバリバリしていて、忙しくて、同窓会なんてあんまりなって思いながらも、集まったら集まったで、あいつも頑張ってるから自分も頑張ろうとパワーをもらう同窓会。四〇代の後半になると、なんとなく人生の先が見えてきて、職場でも自分の立ち位置が分かって、でも、まだまだもう少し、って励まし合おうと集まる同窓会。僕がまさにこれから迎えようとしているのは、お互い還暦を過ぎて、仕事もリタイアして、余生をどう楽しく過ごしていこうかということを話す同窓会。世代世代でいろいろな捉え方があるじゃない?同窓会って。だから、三〇代の人も四〇代の人も五〇代の人も六〇代の人も、みんな集まろうよ!って思います。

楽しいひとときでした。

在校生へメッセージを

亀山 継続することというのは本当に大切です。僕もこの道、もう四〇年くらいになるのですが、続けていれば、小さいながらも自分のお店で自分の思うことができるようになります。続けないと人から認めてもらえません。それは、東京だろうがニューヨークだろうが岐阜だろうが、どこの世界でも一緒。東京へ行って成功することが世界で活躍することではないと僕は思います。ここまでメディアが発達した時代なので、地方からでも十分、発信することができます。僕はコロナに感染して、命を失いかけたので、このもらった命はやはり、信念に従って、したいことするべきだと思いました。

建物でも、食べ物でも、音楽でも、シナリオでも、絵画でも、飾らない、デザインしない美しさを求めています。皆さんにも何か自分自身の信念を貫いていただきたいと思います。

伊藤 同級生と共に過ごした高校時代は、自分にとってすごく豊かな日々で、岐阜高校を卒業できたことに感謝しています。何かつらいこと、相談したいことがあった時に、話を聞いてくれるのは同級生の仲間でした。結局自分がどうするかというのは自分自身で決めなければいけないのですけれど、仲間に話をすれば、二つの道があった時に多少険しくても、いばらの道を進んでチャレンジする道を選ぶ後押しになると思います。私も自分が家業を継ぐなどということは全く思わずに大学を卒業して、決して楽ではなかった旅館経営をどうしていくのかを、同級生や主人に相談したところ、打って出ていけば何か道は開けるのではないかと後押しされました。おかげでこうして今、まだ続けることができています。後輩たちには、相談できる相手を見つけてほしいということと、迷った時には険しい道を選んでいくことが大切ということをお伝えしたいです。

 県民性かもしれないけれども、とっぴなことをする人間を嫌うというか、「堅実」が一番正しいというような。例えば、僕のように脚本家になるって言ったときに、そんなのなれるわけない、というような考えをする人が、岐阜には多いと思います。無理、無理っていう。頑張れっていう県民性ではない。でもね、志せば、そして志を強く持って続ければ、何かになれるよ。夢を持って、それに向かえば。本当に百折不撓であれば。東京の人たちは、「夢を持てばできるよ」って平気で言うからね。とっぴな夢をかなえた成功例が近くにたくさんあるからかもしれないけど。岐阜県人って、そういうことを言わないんだよ。だから、後輩たちが変えていってほしい、心からそう思います。

略歴

亀山克憲

カンポドォロシェフ
昭和五二年卒
岐阜高等学校卒業後、料理界へ
フランス料理、スペイン料理、中国料理、イタリア料理を学ぶ。
一九九五年総合料理の店カンポドォロをオープン。
二〇一八年現在の岐阜市鷹見町へ移転

伊藤知子

十八楼女将
平成五年卒
嫁ぐことが夢で日本女子大学へ入学したものの、婿を迎え十八楼の女将となる。子ども三人は全員が湊町一〇番地の十八楼と重なる一〇月一八日生。
長良川温泉若女将会の会長、岐阜市教育委員等公職でも活躍中

林 誠人

脚本家
昭和五三年卒
テレビドラマ
『TRICK』『ストロベリーナイト』『ドクターX~外科医・大門未知子~』など多数。
~天才を育てた女房 世界が認めた数学者と妻の愛~
二〇一八年 文化庁芸術祭賞 優秀賞
同年 日本民間放送連盟賞 番組部門優秀賞

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